感想の掃き溜め

140字に収まらなかった主観

ひたすら長くて重いCFTM感想②

 

 

 

 

 

年が明けてもロスがつらい。

 

 

 

 

 

 

 

というわけで、前回の感想の続きです。

 

 

ネタばれしかありません。

 

 

 

 

 

ネタばれしかありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

CFTM感想②

 

 前回、この物語の主題であると感じた2点について述べていこうとしました。が、案の定長くなってしまったので一つ目のみで終わってしまいました。今回はその書き残した二つ目について。

 

 この物語のもう一つの芯、それは、主人公である海月の変化であると思います。ここでは、この物語における海月の変化を大きく分けて二つの観点から捉えてゆきます。

 

 まず一つ目は、ストーリーのメインでもある、海月の悪夢からの解放です。物語の序盤から海月は、帝とかぐやを引き離してしまったことを悔やみ、そのときの悪夢に苦しんでいます。ここから、帝とかぐやの再会をきっかけに、その別れは「誇るべき別れ」であったことを知り、悪夢から解放されてゆきます。ここに見える海月の成長、それは「気持ちがつながっている」ことの重要性に気付く、ということではないかと考えました。

 海月の悪夢は、帝とかぐやを引き離してしまったことに対する罪悪感や後悔から生まれたものであり、その根底には帝に幸せでいてほしいという願いがあります。ここから海月は、帝にとっての幸せはかぐやと共にいることである、と考えていたのだと推測できます。

 しかし、実際には、それは少し違っていました。かぐや(と恐らく帝も)は、自ら別れを選びました。離れていても心は繋がっている、これは誇るべき別れである、と。確かに、ずっと共にいることができれば、それに勝るものはありません。ですが、別れることがイコール不幸というわけではないのです。そのことを、恐らく海月は理解していなかったのではないでしょうか。かぐやに真実を教えられ、そのことに気づき、それが、悪夢からの解放のきっかけとなったのではないかと思います。

 そしてこれは、海月自身が直面している別れの受け止め方へと翻って行きます。海月が直面している別れ、それは帝の死です。自らの生きる意味であった帝の死を目前にした海月にとって、傍にいることだけが幸せなのではない、距離が離れていても心で繋がっていることができる、そういう幸せの形もあるということは、ある種の救いであったのではないでしょうか。そしてそれは、海月の変化であり、成長ともとれると思います。

 

 次に二点目。一点目では、海月の別れへの捉え方の変化に着目しました。ここでも触れたように、海月にとって帝という存在はとても大きなものです。海月の成長を考えるに当たって、帝の存在は欠かせないものであるでしょう。

 数多くあったふたりのシーンの中でも、出会いの場面はとても印象深いものでした。この場面の歌で、始めに帝は、海月に泣いているのはなぜか?と海月に問いかけます。それに対し海月は、そう問われて初めて自分が泣いていることに気付いた、と振り返ります。ここから、この段階では、海月は自分自身の感情もよくわからないほど、自我の曖昧な状態であったのだろうと考えられます。

 その後、「海月」という名前は帝が名づけたものであり、「海に映る月」の意であることが語られます。この海に映る月について、帝は「儚いと思うか、それでいい。」と歌い、さらに、その名を確かなものにしてゆくのは海月自身である、と続けます。名前もなく、存在すら曖昧であった海月に名を与え、さらにその存在を確かなものにしてゆくのは自分自身なのだ、と伝えるのです。いとエモし。

 そして曲は再度、最初の帝からの「泣いているのはなぜか?」の問いに戻ります。しかしここでは、先ほどとは違い、海月は自分で、「怖いからです」とこたえるます。泣いていること、その理由である自分の感情を自覚することができるようになったのです。

 では、何が怖いのか。私は、帝との別れが怖いのだと考えました。海月は物語の中では終始、帝に幸せでいてほしい、そのためにかぐやと帝を一目会わせたい、ということだけを繰り返します。ですが、ここだけは唯一、海月自身の寂しさが溢れたのではないかと思いました。

 さて、帝に名前をもらい、自我を確立していった海月ですが、これは帝という存在を拠り所にしたものです。ここから、月の住人たちと関わり、悪夢を乗り越え、海月は新たな生き甲斐を見つけていきます。そうなったときに、今度は月の住人たちから歌われる「その名を確かなものにしてゆくのは自分自身だ」という歌。これ以上ないエモさでありました。

 

 海月は、帝を拠り所として自我を得、その別れが近づく中で、傍にいること以外の幸せがあることを知り、自分自身で生きる意味を見つけていきます。この海月の成長ともとれる変化が、物語の1つの主軸であったのかな、と思いました。

 

 また、海月の印象的なシーンとして、何度か描かれる帝に頭を撫でられる場面があります。海月はいつもどことなく安心したように帝からのそれを受け入れます。このシーンの対比として、朔夜が月詠から撫でられようとする場面に着目すると、朔夜は必ず子供扱いしないで、とそれを拒否していました。子供扱いを嫌がる内はまだ子供、というのをどこかで聞いたことがありますが、まさにこれはそういうことなのかな、と思います。子供扱いを嫌がる朔夜はきっとまだ子供でいられるし、そうでない海月はもう子供ではいられない。そして海月はそのことを知っているからこそ、帝から撫でられるとどことなく安心したように見えるのかな、と思いました。